2023年4月22日(土)~23日(日)

4月22日(金)

朝一番でフェリーターミナルにあるレンタサイクルに電話したところ、これから出れば隠岐神社の隣で「牛突き」を見られるとの事だったので、急いで、自転車を借りて出かけた。
「牛付き」とは、2頭の牛が対峙し、角で押し合い、押し込まれた牛は負けるというもので、子牛が角を突き合わせている姿を見て後鳥羽上皇が喜んだことから、島民が上皇を慰めるために始めたと伝わっている。牛は雄の2歳から7歳で、戦いに負けた牛は戦意がなくなり、2度と戦えないので、廃牛になり食肉になるらしい。しかし、その牛の飼い主は情が移り肉を食べられないらしい。今回の「牛付き」は観光用なので、「勝ち負け」がつかないようにしていりとの事だった。

 
(牛突き)
 
その後、隠岐国分寺を訪ね、住職と話をして、蓮華会舞のビデオを見せてもらった。蓮華会舞は平安時代から鎌倉、桃山期のもので、能楽や神楽と異なるインドや中国の大陸文化の流れをくむ伎楽・舞楽の趣が濃く、大陸から入って全国の主な寺院で舞われていた舞楽が隠岐に伝わったものだ。蓮華会舞には「麦焼き」と言う農作業を模した舞がある。「麦焼き」とは麦を畑で焼くもので、焼いた後の麦わらは肥料の代りになるから、おそらく、「麦焼き」を舞うことにより五穀豊穣を祝ったのに違いない。

住職にお礼を言って、現在、1対しか残っていない駅鈴をみるために玉若酢命神社の隣の億岐家宝物館に行った。駅鈴とは、幅約5.5 cm、奥行約5.0 cm、高さ約6.5 cmの鈴の事だ。646年に孝徳天皇によって駅馬・伝馬の制度が設置された時に駅鈴制度も整備された。官吏は駅舎に着いた時にこの駅鈴を鳴らして人足と馬を徴収したと言われている。億岐家宝物館に残っている2つの駅鈴は実物で、国の重要文化財に指定されている。また、この音を録音したテープが流されていた。驚いたことに2つの鈴の音色が違っていた。目を瞑り2つの鈴音を何回も聞いた。人が誰もいなかったせいか、自分の周りの空間が、一瞬、平安時代にタイムスリップしたように思えた。

億岐家宝物館を出て隣の玉若酢命神社に参拝した。玉若酢命とは、隠岐の島の開拓にかかわる神と考えられている。境内には、「八百杉」と呼ばれる樹齢千数百年の杉の巨木があった。その巨大さは、神が宿っているような感じがし、確かに、古代の日本人が「神木」として崇めていた気持ちが伝わってきた。
 
(玉若酢命神社の「八百杉」)
 
昼食後、タクシーで島内観光をした。運転手のOさんの話は面白かった。僕が会った島の人達の話をするとOさんは、
「この前、誰々は内航船に乗っていたとか、昔、誰々と誰々は付き合っていた」
とか全員の事を知っているのだ。

<島民のお隣さん的感覚は、都会ではほとんど失われているが、なぜか、妙に人間臭く懐かしく感じた>

「後鳥羽上皇と後醍醐天皇は、本土から小さな船を漕いで、大変な思いをして隠岐に渡ったんでしょうね」
と聞くと、Oさんは、
「お客さん、俺は漁師だから分かるけど、島には、夏は南風、冬は北西の風が吹くのよ。昔も風の吹き方は変わっていないから、お偉いさんは、大きな船に一枚帆をかけ、島に渡ってきたのさ」
と教えてくれ、
「風のせいではないけど、島には、若者も含めた移住者が多いんだよ、都会の連中は、島に憧れるのかね」
と続けた。

<この島は移住者が多いらしい>

「竹の坊」の女将がクーポン券をくれたので、このクーポン券が使える「酔仙」という焼肉屋に行き、久しぶりに、ビールと焼き肉を食べた。まだ、時間が早かったので宿に戻り、ひと風呂浴び、20時開店の<j-Bar Yulayulaというバーに行った。

店に入り、バーカウンターでジャックダニエルを飲みながらマスターと話した。
店には、フォーク・クルセダーズの「イムジン河」がかかっていた。
「珍しいな、フォークがかかってるって?」
「この時代の曲は、詞がハッキリして分かりやすいから好きなんです」
と、マスター、
「そうだよな。今の曲はリズムとテンポが主で、何を言っているのか聞き取れないからな」と、俺・・・・
<亜麻色の髪の乙女など何曲か1970年代のフォークが流れている>
「そういえば、島には移住者が多いって聞いたけど・・・」
「そうですね、自分は島育ちで、おやじは豆腐作っているけど、この店は、島の若い客の週末のたまり場だけど、そう言われれば島育ちは少ないかもな?」
「俺もそう思うよ」
と、今まで、静かにBGMを聞いていた隣の若い客も同意した。この客も宮崎出身で、この島で、3年間働いているとの事だった。

ジャックダニエルのロックを3杯飲んだ頃から、若い女性客が多くなってきたので、年寄りは、
「また、来るかもしれない」
と再会を約束して店を出た。

<週末に島の若者が集まるDjバーか・・・・・・>

何となく気持ちが嬉しくなった。 
 
4月23日(日)
宿の女将に挨拶して、西郷港から高速艇で境港の七類港へ戻り、乗り継ぎバスで米子駅に出た。米子発11:37のJR山陰本線で安来に移動し、安木駅前から足立美術館のシャトルバスで美術館へ向かった。
足立美術館は、大八車で木炭を運ぶ仕事から商売を始めた足立全康というたたき上げの実業家が、昭和45年に、横山大観から「日本画の美」を、足立自らが関係した「日本庭園」から「日本人の美の原点」を後世に残そうとの思いで建設したものだ。今回は3時間ほど時間を取ってあるので、1回目は全体をゆっくりと回り、喫茶室でカフェを飲みながら庭園を眺め、2回目は気に入った大観と河合玉堂の日本画をジックリと鑑賞することができた。
<自然の中に身を置き、好きな絵を眺めながら、日がな一日「マッタリ」と日本酒を楽しむ>
そんな事を夢想する年になったのだと妙に嬉しかった。

 
(喫茶室から撮った日本庭園) 
   
16:30に南部町の友人のTが美術館まで迎えに来て、彼が理事をしている南部町の「緑水園」という保養センターに向かった。
Tは鳥取から東京にでて、学生時代を東京で過ごしたのだが、4年間、朝日新聞の新聞奨学生で新聞販売店に住み込み大学を卒業したのだった。

<再開を祝して乾杯で始まった2人だけの宴会は深夜まで続いた>

 
 
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